第一節 盛岡城
盛岡南部藩は天正十八年(1590年)七月、秀吉より所領安堵の朱印を交付された時をもって創業期とし、明治元年(1868年)十二月明治の新政府により所領を没収されたときを終末とすると、二百七十九年となる。
天正十九年八月、所領十郡十万石が決定してから、後に八戸藩、七戸藩等に分割したが、その後生産力の増加があり、文化年間(1804~18年)以降は表高二十万石の大名として取扱われていた。
盛岡城を構築した不釆方(こずかた)の地は、天正十九年の秋、蒲生氏郷、浅野長政、堀尾吉晴、井伊直政等の諸武将が、部下将士と共に宿営した土地であり、伝馬(てんま)継所でもあった。
不来方城は南部氏の被官福士氏の持城であった。福士家の記録によると、命により文禄三年(一五九四年)八月太守に納めたとある。
福士政治。嫡子同 伊勢。
伊勢嫡子 鵜飼宮内。
上ハ文禄三年伊勢代に、不釆方普請遊ばされ候に付いて、利直様より鵜飼村へ移り候様ニ仰せ出でられ、同八月罷り越し候所に如何思召され候や、鵜飼と名乗申すべしと、右宮内秀治より、此方鵜飼と名乗り申し候。元和三年(1617年)、右宮内十月二十八日病死、妻姉帯大学姉(中略)
上の通り書上申し候間、御目かけ申し候御覧なさるべく候。
以上。
八月十九日
鵜飼哥幾
鵜飼治右衛門様
八戸福士家系図には
(中略)文禄三甲午年八月、太守信直公不釆方館御用地の由命によって指し上げ鵜飼村へ移る。これによって氏を鵜飼と改む。利直公の御代慶長七年(1602年)。故ありて身帯御取り上げ、浪人となる。(下略)
盛岡東顕寺由緒書には、
鵜飼宮内秀純(中略)
文禄三年八月、不来方の館、御用地に付き差し上る。鵜飼村江移り候様ニ仰せ付けらる、此節より鵜飼宮内と号し候。
慶長七年、故障ありて身体御取り上げ、慶安元年十一月二十八日病死(中略)宮内妻、姉帯大学姉なり。
盛岡城の位置の決定に伴い、今まで各地にあった戦国時代の城は、主なもの二・三を残して他はこわされる。新しく抬頭した火砲に対する築城として、石塁が用いられ、射程距離を案配して濠の巾と土塁を増大し、治府と防禦をかね、この地では未曽有の城郭が誕生した。従って武士は城下に移り、人が集り、商工業も発達し、城下町をつくったのである。
第二十七世利直は、父信直に代って盛岡城におり、藩政を処理する。慶長四年八月十一日付利直花押黒印、元信弥六宛、岩手郡滝沢村八十五石、同八月十一日付同花押、北与兵衛宛、同郡中野郷大官村八十五石余、同八月十二日付同花押黒印、玉山兵庫助宛同郡巻掘村百六石余を扶助宛行している。この時、信直は福岡城に病臥であったから、利直は盛岡城にあって藩務を決裁したものであろう。浅岸氏・元信氏は、旧不来方城主福士淡路の舎弟と称されている。兄浅岸源五郎は浅岸村を領知し、弟元信弥六は米内村三百石を領知していたという。浅岸元信はともに中津川、米内川周辺の地名である。殊に元信の地は、米内郷より閉伊郡の岩泉郷方面に通ずる西口の要地であったので、福士氏を同郡鵜飼村に転住せしめたのに伴い、その一族の元信氏の知行替をやったものであろう。利直の配慮が察しられる。
遺知行之事
前岩手郡、滝沢村ニおゐて八拾五石、扶助せしめしものなり。
慶長四年八月十一日
利直御黒印
元信弥六
第二節 地方統治
近世大名としての南部氏の地方統治の諸機関がようやく整備されたのは慶長後期(慶長十年が1605年で終りは同20年)から元和年間(1615年-1624年)のようであり、寛永年間(1624年-1644年)に至って基礎が定まったといえるようである。庶政の執行責任者としての署名においても寛永十年(1633年)ごろから、老臣連名の証文となっているし、城代や代官所の数や員数も寛永十年あたりから定数になっているようである。
藩の地方統治は城代統治と代官統治の二つに大別されるが、概していえば、城代統治が城の廃絶に伴って代官統治へ移行する傾向を示していた。これは中央政権たる幕府の方針では、豊臣政権以来、中央集権的で、諸大名に対して、家臣の城塞(さい)所持を許さぬためと、もう一つの理は、和平時代に入って国境警備以外の城塞は、自藩においても不必要化したためであった。
慶安五年(1652年)の正覚寺本御支配帳に御代官数〆四拾七官とある。四十七官所の内盛岡分は九代官所、郡山分八代官所、花巻分十一代官所、閉伊奥郡鹿角分十九代官所としてある。代官は各代官所二名が常例であるが、任期については一定の標準があったか否か明らかでないが、代官二名の員数より推察すると、すでに当番非番制が確立していたものであろう。また当時、各代官所とも代官所なる独立の官舎の有無も判明もない。下(した)役や書役の有無も判明しない。盛岡七代官所は沼宮内・滴石を除いた、鵙(げき)逸(岩手郡門前寺)以南、蝦夷塚(紫波郡高田)以北は盛岡分代官所と推定され、その区分は不明である。岩手郡は上岩手・下岩手と称し区分は不明であるが、北上川筋盛岡近辺の東部を下岩手と称し、川口・沼宮内方面を上岩手と呼び、この俗称は北上川東部のみであったろう。
南部領内では代官の統治区域を通(とおり)と称している。これは代官支配区域を指したのではなく、単に方面とか地方を意味していたであろう。ところが天和年間(1681-83年)になると、三十三通はいずれも代官所統治区域を指した名詞になっている。
本村は盛岡五代官所の厨川通にはいる。盛岡五代官所は上田通・厨川通・見前通・向中野通・飯岡通となっている。
代官としての心得について『宝翰類聚』の中に
一、年貢米は未進なき様につとめること。
一、田地耕作に念を入れ、用水堰や川よけに注意すること。
一、日そん水そんのないよう申付くることが肝要である。
一、伝馬や郷役など遅延しないよう配慮しておくこと。
一、私的のためにほ伝馬一匹・人足一人たりとも使ってはならぬ。
一、御礼の金銭や品物はたとえ菜そう地(菜地の事で給所地)にても取ってはならぬ。
一、また代官所内で強請に買いものをしてはならぬこと。
一、その外、紛らわしい事柄は、百姓より目安をもって訴え出させる事。
一、以上かねてより約束(心得を指令ずみ)のとおり釆配すべきこと。
とある。
享保年間(1716年)以降になると、領内の諸産業が行詰って進展せず、それに数度の大凶作に遭遇した。さらに国際情勢の変化から、南部藩は二十万石の大名に格上げされ、それにふさわしい軍備を整備して釜石海岸から下北半島を経て野辺地海岸までと、松前の蝦夷地函館から室蘭にいたる海岸を警備することになった。この期問は七十年も続くので、その財政は全く困難を極め、三十数万人の領民はそのために苦しんだのである。
従って、代官や代官所諸役、その他の機関も職掌達成に容易でない苦労があった。農民の不服従運動として一揆の頻発するのも、その情勢を語る一つの出来ごとであり、内憂外患の国情は、天保年間(1830年~)の凶作以後いよいよ深刻となるのである。これが打開には、各人がその立場において、現状に安住することは許されなくなった。そこに意見の対立が生じ、政争が惹起し、御家争動も発生してゆくのであり、学問が奨励され、科学性が要求され、文武教育も代官の一つの責任となってくるのであった。代官や勘定方に人材が登用され、やがて旧套行政は刷新される気風が、次第に濃くなってゆくことゝなる。
南部藩は享保年中に入って、財政がひどく窮乏をつげるようになった。そこでとられた政策は、諸経費を節約する緊縮政策であり、大幅な役職員の整理であったので、地方行政の人員の上にも大きく響いた。このとき藩主南部利幹(もと)自ら卒先して倹約を励行し、家老以下の講職の任命替を行い、儒者で経済学者である沖弥市右衛門等を勘定方元締役に挙用して、厳重に倹約令を実施し実績をあげたのである。
享保二十年(1735年)三月、領内の代官区を三十三とし、代官所を二十五カ所に整理したのである。
本村は岩手郡中上田通・厨川通・雫石通・向中野通・沼宮内通の厨川通所管となる。
厨川通は下厨川・上厨川・大釜・篠木・大沢・土渕・鵜飼・滝沢の八ヵ村で高六千三百十八石五斗となっている。
代官所職制について『南部史要』に「代官所には、代官二人、下役(助役)二人(何れも半年交代の勤務)、物書二人乃至三・四人(地方給人を用う)をおき、郡村の事務并に給人・役医・与力・同心等の文武教育を掌らしむ」とあってその大要を伝えている。厨川通の御代官二人、御帳付二人となっている。
各地代官はおゝむね盛岡直参の藩士から任命され、任期は二ヵ年程度で転任している。その身分は百石未満の武士を起用する例が多い。代官所に半年交代で勤務し、代官所に在るものを当番、任地から離れているものを非番と称していた。下役とは代官の補佐役であり、物書は後の書記役である。下役・物書等は地方在住の士分のものが起用されている。
各村には、村肝入役・書留役・老名役の三役があり、各町には、町検断役・書留役・宿老役の三役があった。
町と村との区別は町は宿駅伝馬の施設のある市街地であり、村にはそうした設備がなかった。町検断も村肝人もそこの代官の配下に属し、その任免も代官の権限内にあった。町検断は町を代表し、村肝人は村を代表して代官に下意を上申し、代官からは検断や肝人を通じて上意を町村に下達するので、検断役や肝入役は、地方行政上の最下部の組織体の役職制であった。
この最下部の役職制を単位として出来ているのはこの郷村三役であって、書留役やオトナ役は、その最下部単位の中の一つの職制であった。
村役と称するものゝうち後世の村長にあたるものに村肝煎がある。書留は後年の村役場の書記にあたり、肝煎は関東の名主、関西の庄屋と同じ性質のもので、主として村民の推薦せる者を藩が認めたものであった。別に任期もなく、事故がない限り、終身勤務しており、多く世襲で、その村の生活の安定している旧家などで勤めていた。一村一名を原則としているが、他の村を兼ねている例もある。肝煎の職責及び権限は、一、村行政の一部。二、村内警察事務の一部。三、上司よりの命令布告の伝達。四、土地売買登録事務であった。この村肝煎の外に馬肝煎・山肝煎があった。前者は代官所の牛馬役に属し、牛馬に関する一切の事務を管掌し、後者は主として林制を管理した。さらに古人(こにん)と称する役名もあって、村の境界・地理・制度等に通じていたものである。老名はアイヌ語の酋長(おつてな)より転化したものといわれ、年寄と共に助役として肝煎を補佐し、村政に参画した。多くは村の顔役・豪農・前肝煎・篤農家等で占めていた。その外に一切を書記する書役があった。村内は高二十石を一組とし、五戸から十戸位あって、組頭を「目論見」「入札」「順番」等によって定め、あるいは五人組をおき相互に連帯扶助せしめながら村政に対して共同の責任を負わせていた。
厨川通の御代官については『岩手郡誌』に寛永年間(1624-44年)戸来半助・平野原助十郎、貞享年間(1684-88年)、長牛市左衛門・金田一兵衛(鵜飼)、寛保年間(1742-44年)、原平兵衛・松田清太夫、寛政年間(1788-1801年)和井内平作、外岡織右衛門、天保年間(1830-44年)、小栗己代治・池田縫右衛門・米倉五左衛門とあり、大坊直治氏調査による年代不明の歴代代官には栃内瀬左衛門・沢田宇右衛門・中野専右衛門・中里準見・横沢圓治・平沢良作等とある。
明賀に伝わる天保九年(1838年)厨川通篠木村田畑分地高留帳の中に下の記述がみられる。
覚 厨川通
当年御巡見使御通行の旨仰せ出され候これに依って御差支の御時節容易ならざる御物人には己前の御振合を以って御高割金取り立て仰せ付けられ候もっとも天明の度は高百石に付き弐両弐歩積りを以って取り立て仰せ付けられ候間此度も右同様仰せ付けちるべき義に供え共近年打続く作柄宜しからず御百姓共困窮の義御汲察の上格別の御仁恵を以って此度高百石に付き壱両弐歩積り取り立て仰せ付けられ候条右御憐患の御趣意御百姓共つくづく申し含み侯上は来月十五日限り急度(きっと)取り立て皆納侯様仰せ付けらる
天保九戍年正月
御巡見御用所
大嶋 次郎兵衛 殿
気田 所右門 殿
御帳附
喜兵衛
手伝
長四郎
肝煎
小十郎
老名
三太郎
同
十兵衛
同
嘉右ェ門
五人組合面附(つらづけ)
参郷組
一 滝右ェ門
一 太助
一 孫之助
一 丑松
一 仁助
〆
臨組
一 新左ェ門
一 新助
一 治右ェ門
一 助八
一 助五郎
一 作之亟
一 助七
一 治五郎
一 定助
〆
待場組
一 三太郎
一 利助
一 三九朗
一 伊助
一 喜助
一 与平衛
一 孫作
一 弥太郎
一 喜三治
一 次兵衛
一 庄右ェ門
一 与助
〆
綾織組
一 千助
一 甚之助
一 平右ェ門
一 甚七
一 金兵ェ
〆
上(かみ)組
一 嘉右衛門
一 六之助
一 甚右ェ門
一 十兵衛
一 弥三治
一 甚太朗
一 甚十朗
一 嘉平治
一 竹松
一 申松
一 三十郎
〆
弐人組
一 三平
一 松之助
〆
禰宜組
一 字太郎
一 文治
一 徳助
一 忠助
〆
長井組
一 金右衛門
一 長太
一 源助
一 吉右ェ門
五人組合相談の上直し候事
篠木村の五人組の最低は二戸で最高が十二戸、計五十一戸になる。打続く作柄不良のため御救察の上格別の御仁恵で取立を的半減にしているが、組中に若し病人が出て耕作不能になっても、組内の共同責任で、期日までに急度皆納するようにといい渡されている。
肝入について現在までの調査を示せば、滝沢小学校の村誌中に、天明時代以後の大釜村の肝入は中屋敷勘之助・瀬端叉右ェ門・吉清水蔵之助・細谷理兵衛・善四郎・与左ェ門とあり、小屋敷に伝わる天保四年(1833年)の作付絵図中に、古人三右衛門・老名甚右衛門・同勘右ェ門・主蔵・善四郎が見えている。
篠木の天保九年頃の肝入は前述の通りであり、その外に、年代不明なるものに新十郎、吉右ェ門、彦右ェ門、滝右ェ門、三右ェ門、市右ェ門がある。
大沢村は貞享三年岩手山噴火の際代官長牛市左衛門と同行した彦右ェ門、その外に十右ェ門、徳之亟、徳左ェ門、三之亟がある。なお現家号、徳右ェ門、籠屋敷よりよく肝入に就職し割田よりも出でたる如しと大坊直治氏はいう。
また貞享三年岩手山噴火の際の記事に鵜飼村御代官金田一兵衛がある。大坊直治著『三郷』中に、鵜飼村老名与作、同肝入源之亟とある。また、滝沢村老名庄右衛門、与兵衛、甚助、長治、同肝入藤七、寛政八年(1796年)四月十七日とある。
寛政四年三月十四日、篠木村野火逆焼(ほそけ)より火を失して鵜飼村まで延焼し、人家三十六軒類焼した時の記事に、御代官栃内瀬左ェ門様と、松尾五左ェ門様が御出張されたので、大沢村肝入吉兵衛、篠木村肝入与兵衛、土渕村肝入弥作、鵜飼村肝入作右門が御案内申し上げるとある。
なお、第七編産業の変遷第一章第二節林業四の本村の山林古記録中から肝入、老名を記載すると、寛政八年鵜飼老名与作、甚之亟、肝入源之亟、同八年七月山肝入滝沢村藤七、鵜飼村助吉、大沢村十右ェ門、大釜村新助、肝入滝沢村与兵衛、鵜飼村与作、大沢村徳之亟、篠木村吉右衛門、大釜村主蔵とあり、享和三年(1803年)大釜村の老名重蔵、勘右ェ門、肝入卯右ェ門、篠木村老名理惣治、肝入右ェ門、大沢村老名喜兵衛、重右ェ門、肝入徳右ェ門、鵜飼村老名五右ェ門、作右ェ門、肝入太兵衛、滝沢村老名長治、藤七、肝入与兵衛がある。
篠木斎藤古文書に寛政十一年四月の八幡宮の項に肝入勘右ェ門がある。
ここで第十六代篠木小学校々長上野孝二郎氏より教示のあった繋西学院文書に大釜の沼袋が繋村に所属していたことが明らかになったので次に記する事にした。
延宝五年(1677年)
一、拾弐石八斗五合 沼袋甚右ェ門
一、弐石一斗二升七合 〃 小三郎
一、弐石四斗八合 〃 弥三郎
一、参石四斗九升三合 〃 小十郎
上四人ハ先年繋村の内に御座候処、己ノ三目大釜村の内に成る、寛文十一年(1671年)四月十八日の御検地に繋村の御判帳延宝五年三月二十五日に上の通り仰せつけられ候大釜村の高参り候間覚えのためかくの如くに御座候
己ノ三月二十五日
代官 泉山清一郎
阿部 勘介