本市大釜出身の武島 繁太郎(たけしま しげたろう)(本名 武田彩吉)は、北原白秋に師事し、岩手県歌人クラブの初代会長を務めた歌人です。このページでは、郷土が生んだ偉大なる歌人である武島を顕彰するとともに、盛岡大学文学部教授の須藤宏明先生に武島の歌を紹介・解説していただきます。
略歴
武島 繁太郎(たけしま しげたろう)
教育者・歌人
(明治二十年三月十七日~昭和四十六年十一月二十日)
- 本名 武田 彩吉。滝沢村大釜に生れる。
- 明治四十四年 岩手県高等師範学校を卒業。
- 篠木尋常高等小学校長、福岡高等女学校等を歴任し、戦後は高校国語教師として、岩手県の教育界に貢献する。
- 師範学校在学中から文芸活動を志し、戦前は北原白秋主催の「多磨」同人として、また戦後は「形成」、「地平線」の同人として活躍する。重厚な詠風が特色で、歌集「花わらび」、「おくの草桁」を出版する。
- 昭和二十二年から昭和四十六年まで、岩手県歌人クラブ会長として後進の指導や日本の近代文学の研究においても業績を残す。
解説 盛岡大学文学部教授 須藤 宏明
武島繁太郎は、明治二十年三月十七日生まれである。石川啄木は、明治十九年二月二十日生まれというのが定説とされている。大釜出身の武島は、渋民出身の啄木のほぼ一年の年下ということになる。現在の盛岡広域圏で捉えると、同じ地域出身の一歳違いの歌人と言うことができる。この二人は、同じ時代を、同じ地域で生きた歌人なのである。
武島の第二歌集「おくの草桁」は、逆編年体で歌が配列されているのだが、その中で最も古い発表は、明治四十一年とされている。武島二十一歳、啄木二二歳である。武島は岩手高等師範の学生であり、啄木は釧路を去り本郷赤心館で赤貧の暮らしをしていた年である。武島の歌のほぼ八割方は写実の歌であり、対象の観察力と分析の鋭さに秀でているのだが、そのような写実の歌の多くは戦後に作歌されたものである。しかし、武島自身が「おくの草桁」の「後記」で「私の所謂習作時代」と記している時期の歌は、抒情を主とした明星派のロマンティックな歌群である。とりわけ、明治四十一年の作とされている歌は、その傾向が強い。
静寂の暗黒(くらやみ)の中におぼめける彩(あや)も名もなき夜の怪鳥かな
声高(こわだか)にあげつらひたる酒呑男(さかをとこ)醒むればあはれ無口の人間
「夜の怪鳥」と題された連作のうちの二首である。明治四十一年には、まだ〈啄木調〉なる言葉は敷衍していなかったと思われるが、現在からみると明らかに〈啄木調〉の歌である。悪戯に「一握の砂」にこの二首を紛れこませたとしら、所謂啄木名歌として挙げられる可能性は大である。後年の武島の歌調とは、格段の差がある。
しかし、見逃してはならぬのは、これらの歌の基盤は観察と分析にあるという点だ。彩りの無い「怪鳥」、呑兵衛の姿を、武島自身の視点で観察した結果の歌である。闇の風景、酒呑みの風景を歌っているのである。啄木の歌は愚痴の歌ではない。やはり、観察の歌である。啄木の歌も武島の歌も、自己を、他者を、風景を観察した歌なのである。