南部氏の居城盛岡と佐竹氏の居城久保田(秋田)を結ぶ最短の道である秋田街道は、江戸時代においては雫石までは「雫石街道」と呼ばれ、雫石では「秋田往来」と呼んでいた。雫石へ通じる道は、以前は篠木坂峠や大沢坂峠、鬼古里坂峠などいずれも七ツ森の北側を通るものであったが、江戸時代になって大釜を経由して七ツ森の南を通る街道が整備された。
雫石街道は盛岡城下から夕顔瀬橋(明治2年、1765年までは舟渡し)を渡り、新田町の升形で盛岡から出るが、現国道46号線と異なるのは前潟から土淵を通って北方を迂回し大釜の竹鼻で現国道に国道に合流することである。
「日向一里塚」は竹鼻から現国道を西に向かい中道の道路北側に一基残存している。南側の塚は取り壊されて跡形もない。塚の規模は東西径8m、南北系8.5m、高さ2mで、一基ながらよく原形をとどめている。
雫石街道の一里塚は、日向一里塚は、日向一里塚から4.6km(42町)の位置に「生森一里塚」2基(雫石町)、さらに4.2kmをおいて「高前田一里塚」2基(雫石町)があり、昭和44年に「雫石街道の一里塚」としてまとめて県史跡に指定された。この雫石街道の整備と一里塚の築造は江戸時代の前期で、慶長9年(1604年)以降寛永17年(1640年)までの間と考えられているが、確実な年代は不明である。
雫石街道・秋田往来は、京・大阪から日本海・秋田湊経由で入ってくる物資の輸送路として、また、幕府、諸藩の馬買役人が仙北郡(秋田県)から国見峠を越え雫石経由で盛岡に入る道としても重要で、これらの一里塚は昔の街道往来の歴史を物語る史跡として重要である。
所在地
滝沢市大釜中道131-4
所有者
滝沢市大釜 日向秀逸
指定年月日
昭和44年6月6日