昭和53年1月31日「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」として、文化庁から選定された。

古墳時代の頃、大墳墓の周辺に素焼きの土器、埴輪がたち並べられていたが、その埴輪のひとつ、形象埴輪のなかに馬具で飾られたとても見事な素焼きの埴輪が発見されている。当時の社会にあって、支配者である豪族等にとって馬の存在が、権力者の権威・象徴を示すものとしてかなり重要視していた証拠といえる。

4世紀後半の大和朝廷成立以降は、大陸から半島系の帰化人が多く渡来してきており、日本人は彼等から優れた畜産技術を学んでいたであろうし、今まで以上に人馬との関係を深めていたはずである。

安閑天皇の543年に「道奥閉付の長、須賀公古麻比留が貢物と馬10頭を献上云々。」したことが知られている。

奈良時代から平安時代にかけては、中央の政権が東北地方に進出してこの一帯の支配権を拡大しているが、このような中央政権進出の契機となった「蝦夷反乱」の背景の一つには、「良馬産出の地」としての強い意識が働いていたこと、また、金・銅等、鉱山資源の豊かな産出地域として注目しており、こうした事情が東北進出の最大の動機になったことと考えられている。また、平安時代の文献、「日本後紀」の嵯峨天皇、弘仁6年3月20日(815年)の条に当時の陸奥出羽按察使巨勢野足が朝廷にさしだした上奏文に次のような一節がある。「軍国の要は馬より先なるは無し、然るに権貴の使、富豪の民、たがいに相往来して捜求すること絶えず。遂に煩いを市民に託して夷狄を犯強し、国のおさまらざること大略之に由れり。ただ馬価の騰貴するのみならず云々。」、これは、現地の役人が太政官に、陸奥、出羽両国の馬匹自由購買の禁止を求めたのに対し、厳罰を課すという姿勢を示したのであるが、このことは、いかに中央が道奥産の馬を重要視していたかを教える資料といえよう。

このように、人々は古くから馬に対して、馬の持つ利用価値(軍用・運搬・乗馬等)を十二分に生かしてきたが、やがて、次の鎌倉時代になると、よりいっそう良馬の需要が拡大されるようになった。

武家政権が成立した鎌倉時代は、とりわけ武士の生活のなかに馬が重要な役割を果たしている。平泉藤原氏の滅亡後、東国武士が派遣されたが、彼等は鎌倉幕府の指示にしたがい、軍馬育成の強化に着手している。また、貞永元年(1232年)御成敗式目の六貫一騎制による牧場管理により、甲斐の南部氏が軍馬としての馬匹改良や牧野整理を進め、南部馬を作り出したのである。

東北の馬が珍重された要因は、馬格、性質とも良好で、かつ粗食に耐え、速力、荷を運ぶ力が強く、殊に集団行動では西南部のよりはるかに優れていたからといわれていたからである。

また、この頃から西日本では牛馬を使役する有畜農業が行われるようになり、次第に東日本から東北地方にも広がったものと思われる。

やがて戦国時代が終り、安定した江戸の藩政時代になってからは、南部氏の馬政は多くの牧場を整理して、江戸中期頃には盛岡藩九牧・八戸藩二牧の十一牧が、藩政として明治維新まで続けられた。

明治以後においては産馬事業は民間で行われるようになり、その名称も馬匹組合連合会⇒岩手県産馬事務所⇒岩手県産馬事業会と変遷し、明治45年(1912年)には松尾町に馬検場を創立。現在は盛岡畜産農協の名で存続している。

こうして、ひととおり東北地方の馬産の歴史・由来をまとめてみましたが、次にチャグチャグ馬コと関係の深い鬼越蒼前神社(旧駒形神社:蒼前神社またはお蒼前さまともいう)と馬コ行事の由来を調べてみると、文献上からは、確かなものはあまりなく、僅かに2・3の伝説が伝えられている程度である。

鬼越蒼前神社由来の伝説のひとつに「慶長2年(1597年)5月5日、鳥谷源右ェ門と申す者、三戸より駒二匹をひいてこの地にさしかかったとき、どうした訳か駒の息が急に絶えたという。小笠原家由緒系図によると、馬が立往生したのは、享保6年(1721年)5月4日で、馬は厨川通鵜飼の鳥谷源右ェ門のもので、この日代掻きの馬が駆け出し、鬼越の地に行って立往生したのだとしている。」

また一説には「和賀郡沢内村新田の力助という者が、端午の節句の休日に代掻きをしていたところ、急にその馬が驚奔して鬼古里の山まで駆けてゆきその場で立往生した。部落民は哀れんで馬をねんごろに葬り、蒼前の神として小祠を建てて信仰し、毎年旧5月5日に馬を休養させ、蒼前参りをして牛馬の無病息災を祈願するようになった」ともいう。この蒼前の神とは良馬の生産育成医療の祖神として、古来日高見国と呼ばれたこの地が後年、南部領となった地帯をはじめ、他所では高志(こし)・科野(しなの)すなわち後の越後と信濃方面において祭祀された生活の神であったとも言われる。また、旧南部領には民間祭祀14祀に加えて藩牧11中4堂の18祀があったことが確認されている。

「鬼古里」の地名は、鬼越蒼前神社の西方約2kmの地点にある峠で、この峠に至る坂道の一帯を「鬼越」と呼び、なだらかな傾斜を持つ丘陵地が広がっている。鬼越蒼前神社(旧駒形神社)は以前に、この「鬼古里」あるいは「鬼越」にあって蒼前神社と呼ばれていたのが、明治末に火災に遭ったのを機会に現在地に移され、再建されたといわれている。現在姥屋敷と呼ばれるこの一帯は、江戸時代から南部藩の放牧地として利用されていたので、このような環境のなかで馬と人々の間柄は単なる生産関係で結ばれるだけでなく、馬も人も日常生活そのものが一つとなって、一層緊密化し、いつの間にか、馬への愛着が、労へのねぎらいに、そして感謝へと結びつき、やがて馬の神をすなわち守護神として神社に祭るようになったのであろう。

やがて旧暦5月の節句を迎えると近郷の人々は一日仕事を休み、愛馬に飾りをつけ、朝早くからチャングチャングの鈴の音を響かせ、馬をつれて参拝するのが慣例化したのであろう。

この蒼前参拝がいつ頃から始められたのかは不詳であるが、江戸時代の初期とみるのが妥当である。