滝沢市では滝沢の歴史をまとめた「滝沢の歩み」(通史・普及版)を平成30年3月より発刊しております。
今年も執筆者の講義や現地視察などを行うイベントを実施予定です。※日程が決まり次第、ホームページで公表予定。
ぜひこの機会に滝沢の歴史や文化を一緒に振り返ってみませんか♪

販売価格

3,000円(税込)

販売場所

  • 滝沢市役所 2階 文化振興課
  • 滝沢市埋蔵文化財センター
  • 東部出張所

問い合わせ

文化振興課(TEL:656-6586)

郷土史「滝沢市の歩み」正誤表について

寄せられた史資料から

郷土史「滝沢市の歩み」正誤表について

本書に、一部誤りがございました。お詫びして訂正いたします。
今後の訂正につきましては、ホームページにて更新いたします。

「滝沢市の歩み」正誤表(1月25日現在)(PDF)

寄せられた史資料から

岩手山登山改所 ※絵はがき

(絵はがき)岩手山登山改所

馬返しにあった登山改所と思われます。大正10年のスタンプが押されています。当時の岩手山は信仰の山から観光の山へと転換期を迎えている時期です。絵はがきも明治後期から昭和初期にかけて全盛期となり観光の名所や当時の災害などをトピックスとして扱い今に伝えています。
絵はがきの登山装束等、興味深いものがありますね。現在この場所は登山ルート外になっていますが、滝沢市山岳協会では毎年草刈りをし、旧改所にある石碑までの道を整備しています。

旧滝沢小学校 ※滝沢小学校百周年記念誌

(滝沢小学校百周年記念誌)旧滝沢小学校

写真は今から40年ほど前の昭和50年ごろ、移転前の滝沢小学校です。現在この場所は滝沢ふるさと交流館となっています。周りには民家も少なく、田んぼや畑が目立ちますね。
この後、急速に児童数が増加し、校舎前やプール横にプレハブ校舎が立ち、ついには手狭となり、昭和57年に現在地へ移転しています。
鵜飼小学校も元は現在の市役所の場所にありましたが、昭和40年に現在地に移転しています。現在の鵜飼小学校の場所は、篠木中学校と統合して廃止となった旧滝沢中学校があった場所でした。
ご家族のお父さん・お母さん・おじいちゃん・おばあちゃんはどこにあった学校に通ったのでしょうか?

滝沢市の人口推移(急速な人口増)※国勢調査から

滝沢市は、明治22年(1889年)、鵜飼・滝沢・大釜・篠木・大沢の五村が合併し、新しく滝沢村となったところがはじまりです。以来126年、3,714人の人口が、現在55,058人(3月)に膨らんでいます。
下のグラフからは、特に昭和45年頃から平成12年頃までの約30年間で急速に人口が増加したことがわかります。
これは、盛岡への通勤圏内として急激な宅地造成が進んだことが要因です。昭和49年の滝沢ニュータウンやあずみ野などの大規模造成・巣子・川前地区の開発により人口増加となりました。また、第2次ベビーブームや企業誘致、東北自動車道(昭和54年)、東北新幹線(昭和57年)が開通し、中央との繋がりが強まったことも影響しています。
古くから滝沢で暮らしてきた皆さんと、縁あって滝沢に移られた皆さん、5万5千人の総力を結集して、今後の滝沢市をより良いものにしていかなければなりませんね。

グラフと表:滝沢市の人口推移

篠木小学校鼓笛隊(大宮選手の激励)

(写真)篠木小学校鼓笛隊

写真は今から51年前、1964年(昭和39年)篠木小学校鼓笛隊です。東京オリンピックに出場する地元(大釜)大宮政志選手宅を訪問したところです。上下白の運動着と帽子、行進の表情・姿勢から当時小学生のさわやかさと一生懸命さが伝わりますね。
写真の左には「大宮政志君生家入口」と表示板がたてられ後方の大きな茅葺の家を案内しています。大宮政志選手は盛岡一高時代から自転車競技で全国優勝するなど活躍し、1960年ローマオリンピックにも出場しています。まさに、郷土の誇る名アスリート!です。
滝沢市スポーツ功労者として滝沢総合公園体育館にレリーフが飾られているお一人でもあります。

1970年岩手国体滝沢会場ライフル射撃歓迎門 ※岩手国体滝沢村会場写真集から

(写真)1970年岩手国体滝沢会場ライフル射撃歓迎門

45年前、1970年(昭和45年)岩手において第25回国民体育大会が行われました。この時滝沢村ではライフル・山岳・ラグビー・ロードレースの4種目が行われ、当時1万2千人の村民総出の運営が行われました。
写真は今の滝沢小学校・中学校への入り口付近に建てられたライフル射撃会場歓迎門です。写真集の解説では「小山田健一さんらの手によって作られた」とあります。このような活動のほか、幼小中の鼓笛隊やバトンガールやプラカード保持をはじめ、婦人会等各団体が大きな役割を担い大会成功へと導きました。各県の選手団も村民宅へ民泊し家族との交流を深めました。
時は巡り、来年の岩手国体で滝沢市は女子サッカー会場となります。

新盛岡温泉(大正初期:鵜飼細谷地)※絵はがき

(写真)新盛岡温泉(大正初期:鵜飼細谷地)

鵜飼小学校の北側に「新温泉」というバス停があります。「温泉!どこに温泉があるの?」と不思議に思いますが、ここには「鵜飼温泉自治会」「温泉子ども会」の名称も残っています。これは実際に大規模な温泉街が鵜飼細谷地に形成されていたことによります。
絵はがきのように大正5年、この一帯、県道盛岡環状線の西側、りんご畑の広がる丘に「新盛岡温泉」はありました。岩手山中腹の網張から木管で湯を引き、その敷地10万坪(約33ヘクタール:東京ドーム7個分)には旅館や商店50軒が立ち並んでいました。「盛岡ヨリ一里自動車人力車馬車便アリ」と宣伝されています。
残念ながら木管継口不全などが発生し、短期間で衰退してしまいます。

この道はどこ?(県道盛岡滝沢線)

(写真)この道はどこ?(県道盛岡滝沢線)

写真は昭和38年ごろのチャグチャグ馬コの行列です。当時の行列のようすが伝わってきますが、注目いただきたいのはこの道路です。砂利道で道幅は車一台分しかありません。場所はどこかお判りでしょうか?
この道路は、現在の「県道盛岡滝沢線」。滝沢市商工会館から青山駅に通ずる道で、現在の「滝沢ニュータウンの南口付近」だと思われます。二人乗りの自転車やリードのない犬が行列の横を通るなど、のどかなようすが伝わってきます。
写真撮影当時「村道」だったこの道は、昭和45年岩手国体の年に「県道」に認定され、道幅や舗装等の整備が進められ現在に至っています。

旧滝沢駅前(出征のぼり旗)

(写真)旧滝沢駅前(出征のぼり旗)

写真は昭和13年(1938年)、岩手山神社の鳥居が象徴的な旧滝沢駅(現滝沢駅より西へ300mの場所)前で、たくさんののぼり旗が立てられた出征の様子です。
のぼり旗に「祝」の文字が見られるように、大きな栄誉として地域の皆さんや婦人会など大勢に見送られて戦地に赴きました。一人の青年を地域・国の宝として、とても大切に送り出した様子がうかがわれます。
後方の旧滝沢駅は明治39年(1906年)に開業していますが、複線化のために昭和42年(1967年)現在地に移転しています。鳥居は今はありません。

大正10年 小岩井駅開業

(写真)大正10年 小岩井駅開業

写真は大正10年(1921年)6月25日、小岩井駅開業の様子です。大きな祝賀塔、張られた万国旗、支柱右側の正装の皆さんから大きな喜びと期待が伝わります。夏を前に、外套片手の写真はちょっと不思議な感じもしますが何かわけでもあるのでしょうか?
小岩井駅の開業は橋場線(現在の田沢湖線)が雫石まで開通したことによるものです。従って、大釜駅も同時の開業となっています。
前号で滝沢駅の開業を明治39年(1906年)と紹介しましたが、平成18年(2006年)には滝沢4つ目の駅として巣子駅も開業しています。ちょうど100年の時が流れており、不思議なめぐり合わせを感じます。

昭和39年 成人式

(写真)昭和39年 成人式

もうすぐ新成人のつどい(成人式)です。写真は昭和39年(52年前)、滝沢村成人式に参加した元村地区二十歳の皆さんです。現在商工会館のところにあった旧役場前で写しています。右側には「青年の家を誘致しよう」の垂れ幕が見えていますね。
注目は女性の服装です。このころの成人式はすでに華やかな着物姿が主流となっていましたが、38年から元村青年会が中心となって「成人式の服装の簡素化」を進め、39年は写真のような服装での参加も見られました。
簡素化の取り組みは3年で終わったそうですが、写真の提供者曰く、「目標に向かってみんなでやり遂げた充実感がありました。青春の思い出です。」
その思いが皆さんの笑顔に表れているように感じました。

「雫石街道」松並木(大釜小屋敷)

(写真)「雫石街道」松並木

写真は、大釜地内、小屋敷付近の「雫石街道」です。情緒ある見事な松並木が戦前の様子をよく伝えています。戦後、ここは拡幅や舗装工事を経た後、1993 年大釜バイパスが通ったことにより旧道となりました。
滝沢村誌に「街道は、1641年(寛永18年)頃に大改修が行われ、一里塚を造り、松の並木も植えつけている。」とあります。
今、この付近に松並木を連想させる風景は全く見られませんが、70年ほど前には確かに残されていた風情です。戻って、歩いてみたい気がしますね。

映画「馬」 スナップ写真

(写真)映画「馬」スナップ写真

映画「馬」は、昭和16年に公開された作品で岩手山を背景に少女と馬の交流を描いています。
写真は映画撮影の合間に見学者が出演者をスナップに収めたものです。滝沢を含め、主に盛岡や小岩井農場で撮影が進められたこの作品は当時の様子をよく伝えており貴重です。子馬時期の撮影で主演女優の高峰秀子が篠木の民家を訪れた際に「ぬか漬け」を菓子代わりに出して喜ばれたというエピソードが残っています。

(イラスト)大釜駅の駅名表示板
映画には大釜駅も登場し、このイラストのような駅名表示板が映し出されます。旧仮名 遣い・右横書き(右から左に進める)、不思議な感じですね!

昭和40年村章選考

(写真)昭和40年村章選考

写真は、昭和40年(1965年)、旧役場会議室で行われた村章選考の様子です。
全国から396点の応募があり、選考にあたって当時の柳村兼見村長(左端)、沢村秀雄村議会議長(右端)をはじめとする審査委員の皆さんの真剣な表情がうかがわれます。
昭和40年というと、前年に東京オリンピックが開催され、日本が活気づいてるいる中、滝沢でも滝沢南中学校が開校、さらに、「国立青年の家」誘致に動き出すなど希望あふれる時代でした。
この年の滝沢の人口は12,559人と現在の4分の1で、以後、選ばれた村章の下、人口が増加するなど大きな発展につながることになります。

滝沢市章

滝沢市章
昭和40年10月25日に村章として制定され、市制移行後も、市章として継承されました。

この市章は、滝沢市の「タ」をアレンジし破調美で単的かつユニークに躍進発展する若々しい滝沢市の姿をシンボライズしたものです。

慶応2年絵地図

(写真)慶応2年  絵地図

今回初めて写真以外の史資料紹介です。
この絵地図は、慶応2年(1866年)大釜村・篠木村・大澤村・鵜飼村・瀧澤村と雫石村・長山村との間で村境を確かめるために描かれたものです。絵地図と共に残されていた古文書にはその説明があり、確認の証として各村の肝入り(村役人)や代官の名も残されていました。
村境は主に道や堰・川により決められているようです。この絵地図を片手にのんびりと村境をたどってみたい気がしますね。

岩手山観測所と資材運び(昭和11年)

(写真)岩手山観測所

写真は昭和11年、岩手山八合目に開設された岩手山測候所(右上)とその工事資材運びの様子(左下)です。
木材を背にした登山は表情からもわかるようにとても辛そうですね。時には一日2往復することもあったそうです。
測候所は冷害気象を解明するため観測を行いましたが、戦後、観測技術の進歩によりその役割は徐々に縮小され昭和48年に閉鎖しました。
現在、その場所には新しく避難小屋が立てられ登山者を迎えています。

(写真)工事資材運びの様子

昭和20年代、野球に興じる地域民

(写真)野球に興じる地域民

たくさん人が集まって野球を楽しんでいます。とても賑やかで活気ある様子ですね。時は戦後間もないころ、後方には当時の滝沢第二小中学校校舎が写っています。現在の滝沢第二中学校のところにあった小中併設校です。
捕手も主審もマスクやプロテクターなど防具はありませんでしたが、主審は胸を張って毅然としています。地域活動の中で、住民の一体感が伝わるとてもよい写真です。

明治10年の篠木學校・瀧澤學校

(写真)日新新聞  明治10年4月16日号

日進新聞 明治10年4月16日号より(岩手県立図書館所蔵)

明治維新後、新政府は教育に力を入れ、明治5年「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん」と「学制」を発しました。各地に学校が造られるようになり、滝沢では明治6年に篠木學校(現・篠木小学校)、同9年に瀧澤學校(現・滝沢小学校)が誕生します。
明治10年にその学校の様子を日進新聞(後に岩手日報)が取り上げ、瀧澤學校は「ようやく開校できたこと」、篠木學校は「生徒150名の出席があり大いに進歩してきたこと」などを伝えています。
今から140年ほど前のことです。

合併前の五村(岩手県管轄地誌)

滝沢市の歴史は、明治22年4月の町村制により下表の五村が合併し、新しい滝沢村っが誕生したところからはじまります。
合併前の各村の様子は、表のように明治12年の管轄地誌から戸数・人口・馬数・特産物などを把握することができます。これから様々なことが思い浮かびますが、馬数を見ると各戸に平均2頭ずつ飼われていた計算となり、特産に「馬」とあるのもうなずけます。当時「田螺(タニシ)」も特産として数えられていたんですね。
町村制以後も多くの市町村は統廃合により施政範囲を大きく変えていますが、滝沢市は当時のまま約130年の歴史を刻んできました。

(画像)明治12年、合併前の五村(岩手県管轄地誌より)

「分レ」から望む岩手山

分レから望む岩手山の(写真)

写真は昭和30年頃「分レ」から望む雪の岩手山です。
岩手山神社鳥居、追分の碑がうまく配置されておりとてもいい風景ですね。手前の追分の碑には巌鷲山とあり、「左、柳澤道」「右、鹿角道」と案内が刻まれています。
道は鳥居をくぐるように通っており、人はもちろん自動車もここを行き来していました。
鹿角道は現在の国道282号線ですが、さらにこの付近は国道4号線、滝沢駅に通じる県道16号線も交わり複雑になっていました。平成になって道路改良が進められ、現在のような「分れ南」が誕生しています。

岩手種馬育成所一本木分厩

(写真提供 家畜改良センター岩手牧場 様)

写真は昭和13年、岩手種馬育成所一本木分厩の様子です。雪の積もる中、雄大な岩手山を背に1600mパドックを走り込んで心肺を鍛えています。勇ましい姿ですね。

日清戦争後、我が国の馬は諸外国に比して著しく劣ることがわかり、馬匹改良のため国策として種馬所が設立されました。岩手種馬所(種馬育成所の全身)は厨川に設置されましたが、軍馬需要の増加に対応するため滝沢地内にも巣子分厩や一本木分厩が設けられました。

昭和25年、馬関連業務の終了により一本木の施設も廃止となり、開拓予定地と畜産試験場用地として引き継がれました。

昭和30年 滝沢第二中学校防火訓練

(写真提供 柳沢 佐々木公益 様)

昭和30年5月に撮影された滝沢第二中学校防火訓練の様子です右側には「腕用ポンプ」と呼ばれる消防ポンプが置かれています。これからその扱いについて消防団の指導があるようです。消防団員や生徒の服装や態度がとても興味深いですね。はだしの生徒も半数ほど見られます。

また、ここ滝沢第二中学校の校庭は、昭和26年度にPTAの力で整備がすすめられ県内最大級のグラウンドとして誕生し諸大会が開催されました。後方に見える木製バックネットも当時をしのばせています。

明治39年 曲がり屋家屋

(写真・古文書提供 下鵜飼 工藤政憲 様)
差し入れられた物が記録された帳票(写真)

写真は、明治39年御庭田に建てられた工藤家家屋で、昭和30年ごろ撮影したものです。

工藤家には、写真右の古文書「家屋新築ニ付人夫助合控帳」が残っており、家屋新築に当たり本家・分家や親族、近隣の人たちが手伝った日数や、食べ物(白米・麦・酒・こんにゃくなど)や資材(茅・丸太・縄など)の差し入れた物が詳しく記録されていました。当時このように助け合って家普請が行われていたことが分かります。

工務店に一切をお願いする現代とは大違いですね。